
宗教法人 普陀山妙法寺
船にお立ちの秘仏:護船観音
花木に囲まれた境内の観光寺院
護船観音御朱印
静かな環境で、座禅・瞑想・写経
マインドフルネス講座・実践会など
多彩なイベント開催
ご遺族の負担が少ない永代供養墓
本尊:護船観音
(ごせんかんのん)

護船観音 縁起絵巻
【脳と体の癒しの禅寺】
資本主義経済の発展に伴い、効率向上を目指した結果、現代人には様々なストレスに蝕まれています。「禅」の作法、文化「禅寺」の環境には、これらストレスを緩和できる様々な智慧が結集されています。境内の庭園や花(視覚)、本堂を流れる風(触覚)といった五感の刺激を「脳」で感じながら、時間が止まったかのような田舎の禅寺で座禅・写経に集中したり、ぼんやり過ごしたりする時間は現代人の貴重なオアシスとなるでしょう。
妙法寺では、また「脳(Mental)」の癒しに加え、体「(Physical)」を癒すヨガも合わせて実践することでバランスの良い総合的な癒しを追求していきます。礼拝や葬儀だけでなく、より善く生きるための場、企業研修や各種イベントの場を提供し、様々な方が「禅」の作法・文化に触れる機会を増やしたいと願っています。読書をするも良し、昼寝をするのも良し、どうぞゆっくりとお過ごしください。

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【妙法寺の歴史】
往古より、ここに天台宗寶陀山妙法寺があって元亀の争乱(注1)で消失し、長らく無住寺院であったのを、徳川中期享保3年(1718年)、黄檗宗開祖隠元禅師5世の孫、仙林がこの地を買得、自資を以って創建隠居したと伝える。仙林は梅領禅師の弟子として土田の正宗寺の法灯を継いだ人で、以来、正宗寺住職の隠居所となった。
天保の頃、高僧聞渓がここに住み、信徒、中村氏等の帰依を得て寺を大きくした。安政2年(1855年)正月15日八幡神社楼門消失に際し、鉄砲町、多賀村などと共に飛び火類焼し、法灯再び滅びようとしたが、明治元年、僧悦伝が四方に勧進し現存の堂宇を再建した。平成20年2月、当寺第17代住職温雄禅師と、その弟小川睦雄氏をはじめとする寺族、檀信徒・世話役各家、大工の棟梁磨谷氏によって、屋根の葺替えと改修工事が完工し、8月に落慶法要が行われた。
(注1)元亀の争乱
(近江での元亀争乱の概要)~元亀元年(1570年)信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢と共に、同年4月に越前国へ進軍。しかし浅井氏が離反したため、挟撃を避けるため撤退(金ヶ崎の戦い)。
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍と共に浅井・朝倉軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、この戦いに勝利した(姉川の戦い)。8月には、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が挙兵、また軍勢を立て直した浅井・朝倉軍が近江国坂本まで侵攻し、延暦寺と結託。9月に信長が本体を率いて近江国に戻った。慌てた浅井・朝倉軍は比叡山に立てこもって抵抗(志賀の陣)。11月に、足利義昭の調停で、正親町天皇の勅命をもって浅井・朝倉氏と和睦。
元亀2年(1571年)、信長は浅井・朝倉に味方した延暦寺を攻める。信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼打ちにした(比叡山焼打ち)。
元亀3年(1572年)正月近江国の金森・三宅の一向一揆蜂起。信長は制圧し、村々より起請文を徴発。3月に信長は湖北を放火。7月に小谷城攻撃し、虎御前山城を整備。
元亀4年(1573年)2月に足利義昭が挙兵した石山・今堅田衆らの蜂起は信長が鎮圧。7月には、信長は鯰江城を包囲、百済寺を焼打ち。8月小谷城攻撃すると共に朝倉軍を攻撃し滅亡させる。9月(天正元年)浅井氏滅亡し小谷城落城、鯰江城開城。これをもって、近江国は織田信長によって平定されました。
(出典:http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-69namazuejouatonado/genkisouran.html#genkisouran)
【黄檗宗大本山 萬福寺】
中国明代の臨済宗(禅宗)として日本に伝わり、当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、明治9 年、一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになりました。大本山は京都宇治の「萬福寺」、宗祖は「隠元禅師」。



