悪しき科学技術信仰

昭和から平成にかけて、高度経済成長してきた日本は、「科学技術立国だ!」と自負してきました。科学技術のおかげで、生活も豊かになり、情報もたくさん取れるようになりました。いっぽうで、なにかにつけて「科学的根拠は?」とか「科学的エビデンスは?」とか、目で見える事象とか、科学で立証された事象以外は信じないという人が増えてきました。これを住職は「悪しき科学技術信仰」と呼んでいます。

科学技術は、主に物質面や我々の住む宇宙について解明してきました。しかし、科学技術で解明できた事象は、まだほんの少しであることに気づかず、すべてが科学技術で解明できたと思うことは人間の傲慢です。まだまだわからないことは多々あります。特に、人間の心の事象については、現在の科学技術では深く踏み込めていません。

令和の時代に入り、世界的に人々の心に関わる問題や事件が顕在化してきています。自殺や、人を巻き添えにする事件、誹謗中傷などの言葉の暴力などなど。科学技術や経済を重視してきた日本では、政治の場でも、学びの場でも、人々の心の問題を軽視してきたことが、昨今の様々な事象・事件になって現れているように思います。

仏教は宗教でもありますが、人間の心の問題を扱う学問でもあります。ブッダ(釈迦)は、人間の心の有り様、心の生み出す事象の研究者でもありました。どうしたら心が生み出している苦しみから逃れることができるか、どうしたら、幸せな人生を歩めるのかを探求したのがブッダです。

「悪しき科学技術信仰」とは、科学技術で立証された事象しか信じないという、ある種の信仰のように見えます。これに陥ると、生きていることや、生活していることが、無味乾燥なものになっていきます。例えば、なんのために生きているのか、なんのために食事をしているのか、なぜ、葬式にお坊さんを呼んでお経をあげるのか、なぜ結婚式を教会でやるのか、なぜ、お正月にお雑煮を食べるのか、なぜ、正月に神社にお参りするのか、なぜ各地域でお祭りをやり神輿を担ぐのかなどなど。これらは「悪しき科学技術信仰」からすると、科学的根拠の無い行為となってしまいます。科学的根拠が無いのだから、やらなくてもいいや!となってきていませんか?しかし、これらを無意味としてやらなくなると、どうでしょう。極端に言えば、人は死んだら終わり、そのまま火葬にするだけでいいや!となりそうですね。教会で結婚式をやる科学的根拠も無くなります。毎日食事を摂るのも、単に細胞を維持するだけのことになりませんか。この世に生まれることも、死んでいくことも、今、生きていることも、科学的根拠で見てしまうと単なる偶然の事象にすぎないことになってしまいそうです。社会がこうなってくると、なんでもありの社会、弱肉強食で、愛情の無い、経済を優先する無味乾燥な社会になっていきます。

科学技術信仰に、心の事象が加わっていくことが、これからの時代には求められていると思います。自分の心の状態、他人の心の状態、心を重視した価値観の創造が、今の日本には必要であり、悪しき科学技術信仰を見直す時期にきているのではないでしょうか。自分だけがよければいいや!とか、人様に迷惑をかけない!のような、冷酷な考え方や表現の背景には、「悪しき科学技術信仰」や心の事象をみない「経済だけを重視した考え方」がありそうです。政治においても、「経済」だけに目を向けた結果が「非正規雇用の増大」という冷酷で無慈悲な状況を生み出した要因だと思います。

現在の科学技術でも、まだ見えていない、わかっていない事象はたくさんあります。見えていない、見えないから、そこには何も存在していないと思ったら大間違いです。見えなくても存在しているものはあります。

令和の時代は、科学技術の発展とともに、心も穏やかに安心して生活できる時代にしたいと考えています。ここにお寺の役割もありそうです。