禅を体感した人が気づくこと

お釈迦様の教えや禅の感覚を体感した人が気づくこと。それは、自分という存在は自然(宇宙)の中の一部であり、自分が喜ぼうが、苦しもうが、そんなことには無関係に、自然は淡々と進み、常に変化しているということだ。

理科系の住職が、この気づきを理科系的に説明すると、天動説、地動説を発見したときの状態と似ている。

昔の人類は、太陽や天体を眺めて、地球を中心に、天が動いていると思っていた(天動説)。ところが、観測(観察)を進めると、どうも、地球が中心で天が回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っていることがわかった(地動説)。さらに、観測が進むと、銀河系という星の集団のほんの片隅に太陽系があって、そこに地球が存在していることがわかった。

禅を体感すると、この世界の中心に自分が存在しているのではなく、この世界のほんの片隅に自分は存在しているに過ぎないことに気がつく。例えば、生老病死は、この世界の摂理であって、自然なことなのだ。さらに、嬉しい、悲しい、苦しいなどの感情は、自然とは無関係な事象で、自分の中で生み出している事象に過ぎないことがわかる。

嬉しいとか、愛おしいとかの感情は、心(脳)によい刺激を与えるるが、悲しい、苦しいという感情は、心にストレスを与え、健全な脳を破壊していく。

この感情に自分が振り回されることは、自分を中心に考える天動説と同じなのだ。自分が中心にあるのではなく、自分は自然の中の一部であり、この世界に生かされている小さな存在。「感情」とは、この世界とは関係なく、自分が生み出しているものなのだと気づくことは、地動説を発見したときと同じ感覚である。感情は自分が生み出しているのだから、これは自分で取り除くことができる。そして心を覆っているものを取り除くと、本当のことが見えてくるとともに、穏やかな心を持つことができる。

自分の心が天動説状態の人は、苦しみや葛藤から逃れることはできない。自分の心が地動説状態の人は、よい気づきを得て、穏やかで幸福な状態でいられるのだ。