住職の仕事をしていると、実に、様々な方と出会い、お話をします。そして、また、宗教とは何ぞや?という真理についても、いろいろ考えを巡らします。
人の品格とは何か?人生を歩むについれ、様々な方と出会い、交流し、その過程で「品の良い人」「品の悪い人」と出会います。「品が良いか、悪いか」を主観的に見てしまうと、それは真理ではなくなります。客観的に見る必要があります。
人の品格について、思考を巡らせると、自分では気がつかないうちに、「品の良い人」は結果として「利他」を実践しているように思います。逆に「品の悪い人」は「自己中心」を実践していると思います。
「利他」とは、他人を利する行動で、かつ、見返りを求めない行動です。単に、他人を助けるとか、支援するとかの狭義の意味合いではありません。例えば「八正道」の一つである「正語」とは、「相手の状態をよく観察し、今、その人にとって一番良い言葉をかけてあげること」です。現代社会は情報化社会です。インターネットを通じて、広く発言することが可能になっています。いっぽうで、発言が多くの方に行き渡る中で、「誹謗中傷」がひどい状態になっています。真実が見えないまま、自分の思い込みで発言し、人を傷つける。これは「正語」ではありません。逆を言うなら「悪語」でしょう。「悪語」は、さらに、自分の心(脳)を痛める要因になります。
「品の良い人」は、自分では気がつかないうちに「利他」を実践しているので、人に意見したり忠告したりする際には、相手の状態をよく観察し、その人にどのように話しをしたらよいか考えてから話すでしょう。
「品の悪い人」は、相手の状態をよく観察せぬまま、自分が感じた不快感を、そのまま口にするでしょう。「自分が不安」だから、「自分の気分が悪い」から誹謗中傷という発言をしてしまいす。つまり「利他」ではなく、「自分のため」の自己中心的な行動です。人に意見をしているつもりが、実は、自分のストレスを発散しているということです。自分のための発言であって、相手のための発言ではないということです。会社で上司から叱られたとき、同僚の前でひどい叱責を受けたということはよくある話ですが、これは上司自身のストレスを発散させているだけで、部下のためになっていないということです。品の悪い上司ですね。品の良い上司は、部下をよく観察し、部下のために、仕事がうまくいくようにアドバイスする上司です。叱責の中に、「思いやり=慈愛」の心があれば、自然に部下の心に届くでしょう。
現在、コロナ禍の中で発生している問題も同様です。感染するかもという不安な心が、自粛警察とか、医療関係者に近寄って欲しくないという心を作ってしまいます。人は不安になると「自己中心」を実践しがちです。それぞれの人の本性は、「不安な状況に陥ったとき、どう行動するか」で見えてきます。調子の良いときには、本性は見えにくいものです。
「現世を生きる」ことは、魂の品格を上げるための修行です。良いことも悪いことも、それを乗り越えて精進(努力)することが修行です。禅堂に入って修行することも、社会の中で生き抜いていくことも、同じ修行です。ところが、同じように生きていても、「品の良い人」と「品の悪い人」とが出てくるのはなぜでしょうか?
「品の良い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに「利他」を実践している人です。「利他」を実践しているので、他人から攻撃されることは、ほとんどなく、相手をよく観察しているので、不安になったり気分が悪くなることが少ない。それが好循環となって、安定した心が生まれ、安定した心は、冷静な脳を生み出し、間違った判断や行動をしなくなります。結果として穏やかな生活が得られます。また「類は友を呼ぶ」ように、「品のよい人」には「品のよい友」が集まってきます。これも好循環。
「品の悪い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに、「自己中心」を実践します。自分と他人を比較し、他人の良い部分を妬み、自分に都合の悪いことには、怒りや憎しみを覚えます。自己中心の生き方は「被害妄想」や「うつ病」の要因にもなりますし、不安定な心を生じさせやすくなることで、冷静な脳を保てなくなり、動揺する心を生じさせ、間違った判断や行動を起こします。また「類は友を呼ぶ」ように、「品の悪い人」には「品の悪い友」が集まってきます。これは「悪循環」。
ここで、宗教とは何ぞや?というお話。日本では、宗教というと「お葬式」というイメージが強い。確かに、人が死を迎えたとき、人類誕生以来、「葬儀」という儀式が行われてきたので、こういうイメージもありますが、宗教とは、本来、「人はどう生きたらよいか?」「どう生きるべきか?」を説いた哲学です。そして、人は、他人と共存した社会の中で生きているので、他人との関わり方が人生において重要です。ここで「利他」を実践するか、「自己中心」を実践するか、で、「品が良い人」になるか、「品が悪い人」になるかが決まります。仏教の根本の哲学は「慈愛」と「利他」の精神です。ブッダは、この根底の精神の上に、「どう生きれば人間は幸せになれるか?」を「八正道」というわかりやすい論理的な形にまとめて説明しています。
日々の生活の中で出会う人を、よく観察してみましょう。「品の良い人」なのか、「品の悪い人」なのか。来寺される方々は、ほとんどが「品の良い人」です。それは、上述した理由によるものと思います。
残念ながら、今の日本は、「品の悪い人」が増えているように思います。ニュースを見ている限り、社会的に偉い政治家、偉い経営者であっても、「品の悪い人だな!」と思う人はよく見かけますね。彼らは、想像するに、いつも「生きながらにして修羅の世界に落ちている」ように見えます。「修羅の世界」とは「いつも争いが絶えず、心が落ち着かない世界」です。