人類が生まれて以来数千年の人類史において、「死」という事象に対して、葬儀し、故人の魂を祀り、その感謝の儀式を行い、また、その墓標を建立し供養が行われてきました。ところが、ここ数十年のたいへん短い間に、日本では「私は無宗教です」という人々が増えてきました。この背景にある人々の考え方について洞察してみると、以下のようなことが要因としてありそうです。
・科学技術が発達し、我々を取り巻く様々な物理現象は、淡々とした物理法則に支配されている。
・生物の進化は遺伝子上、環境に適合したものが生き残り、適合できなかったものは死滅・淘汰されてきた。
・この世に存在する生物は、進化の過程で生じたもので、生も死も、単なる自然現象であって、人間も死んだら何も残らない。
科学技術によって人類は様々な恩恵を受けてきました。西欧諸国で始まった産業革命。石炭・石油・原子力等のエネルギー革命、医学の進歩による長寿命化などで、豊かな生活を送れるようになりました。特に技術立国として成長してきた日本では科学技術に対する信頼は大きなものです。いろいろな課題を解決するとき、「科学的根拠」を重視するようになりました。これを住職は「科学技術信仰」と呼びます。
一方で、「科学技術信仰」は人々の人生観や心を貧しいものにしているように見えます。「死んだら何も残らない。人間は単なるひとつの生物に過ぎない。肉体が無くなれば、それでおしまい。」この科学技術信仰から派生する死生観は、次々と荒涼な心を生み出しています。例えば「富める者と貧しい者が発生するのは、貧しい者の努力が足りないからだ。自己責任だ」。また団塊の世代の方がよく口にする言葉ですが「人様に迷惑をかけないように!」これは一見正しいことを言っているように聞こえるが、自分と人様の間に大きな壁を作っている「慈愛」の無い言葉です。「自己責任だ!」というのと同じ。本当に困っているときに、人様に迷惑をかけてはいけないのでしょうか?私は助けを求めてよいのだと思います。「科学技術信仰」のみを信じると、人間は「単なる炭素・窒素・酸素・水素」で構成される有機体でしかなく、生きるとは自然の摂理で生じ、飲食で生命を維持し、そして老化して有機体が分解される「死」に至るだけの存在であり、この世に生を受けたり、生きていること自体に、あまり意味は無いとなってしまいます。これでは、何か殺伐とした世界に住んでいるとしか思えなくなりますね。本当にそんな世界に我々は生きているのでしょうかね?これは「科学技術とは何か?」をよく知らない人が生み出している悪しき「科学技術信仰」なのです。
「科学技術とは何か?」をよく理解している人は、「我々が住む、この時空間が支配している物理法則の理解と探求である」ことがわかっています。また、「我々が存在している時空間について、人類がわかっている(見えている)事象は、ほんの少しでしかない」ことも理解しています。さらに、「これまでの科学技術は、物質に関する探求がほとんどであり、心や魂については、ほとんど未解明である」ことも理解しています。このような理解をしないまま、「科学技術は万能」「科学的根拠が無ければ信じない(見えないものは信じない)」という考え方は、社会や個人の生活を豊かに、幸福にしていく方向とは逆方向に進ませる可能性があります。
胸を張って「私は無宗教です!」と言う日本人が、特に団塊の世代に多く見られます。この世代は、科学技術が発展し、その成果を享受した世代。別の側面から見ると「物質欲に満たされた世代」とも言えます。物質に満たされることが幸福なのだという宗教でしょうか?しかし、昭和・平成を経て令和の時代に入った今、あなたや周囲の人は幸福でしょうか?今の若い世代は、意外に無宗教ではありません。見えない何かを感じている若者は多くみられます。「魂の次元」は団塊の世代よりも一歩進んでいるように思います。
2400年も前、お釈迦様(ゴータマシッタルーダ)は悟りを得ました。何を悟ったのか?それは、我々の住む世界は諸法に支配されていること。そして、その諸法の1つは「無常」であることです。「無常」とは「この世界を構成するすべての物は常で無い(たえず変化している)」という意味です。これは真理であり、科学技術の知見とも一致する内容です。生まれたら必ず死を迎えるし、愛する人との別れも、いつか必ず訪れます。地球や太陽系にも寿命があります。
もう一つ、お釈迦様が悟った諸法の1つに「空」があります。「空」とは「からっぽ」という意味ではなく別次元に存在する「場」です。我々が五感で認識できる空間は「三次元+時間」という場です。我々は、我々の存在している「三次元+時間」という場で、時間について変化しないものと五感では感じていますが、アインシュタインの相対性理論によって「時間も空間も変化する」ことを知っています。人工衛星の時間と地上の時間の進み方は少しずれていることも実測されています。この相対性理論が無ければ、GPSは動作しません。時間の進み方が場所によって異なるのです。空間も重力によって歪み、一様ではありません。やはり「無常」なのです。
「空」という場は、「三次元+時間」よりも高次元の場です。現代科学の最先端である素粒子論から導かれる次元は10次元または12次元であるとか。これは我々が見たり感じたりできない次元でありますが、どうも存在しているようです。お釈迦様は2400年も前に、その鋭い観察力と洞察力によって、「空」という高次元の存在を、すでに感じておられたようです。
科学技術は、我々の住む空間・宇宙の理解を進めてきましたが、わかったことは、まだほんのわずか。自分の目で見えていることしか信じないというのは「科学技術信仰」の傲慢な側面に陥っています。我々の目は可視光線(虹の色)しか捉えることができません。光とは電磁波であり、電波もレントゲンのX線も、すべて電磁波です。素粒子であるニュートリノも目で見ることはできません。しかし存在しているのです。見えないものの方が多いのに、見える範囲のものでしか物事を考えないのは傲慢であり愚かな行為です。そして、この科学技術は、物質に関する探求が主体であり、心や魂、次元については、まだほとんどわかっていません。このことをよく理解していれば、すべてのことがわかったように思う傲慢な「科学技術信仰」の呪縛から離れることができ、人類の幸福度を、より高めていくことができると思います。
住職は「魂の次元を上げる」と表現します。「魂の次元をあげる」と、さらに真理に近くことができるように感じています。「見えないものは無い」のではなく、「見えないだけで、見えないものは存在している」のです。さあ、あなたも、「呼吸と姿勢」を整えて、五感を研ぎ澄ませて、お釈迦様の後追いをしてみましょう。「見えないもの」を感じるための第一歩です。
「私は無宗教です!」と言っている人は、世界的にはほんの少数です。無宗教の国はほとんどありません。人類史上、数千年に渡って、冠婚葬祭が行われ、両親やご先祖様に敬意を表し供養し感謝してきました。お釈迦様と同様に、人間の感性は、目には見えないけれど感じるものがあるのです。