御本尊:護船観世音菩薩
妙法寺に残る護船観音様の縁起文(古文書)として、下記の文書が残されています。
◆護船観音縁起文(原文)◆
抑此れは、觀音大士慈覺大師の御作であります。大師承和五年(西暦838年)に入唐し、同十四年に帰朝し給うとき、海上において難風に遭い荒波岩石を飛ばすが如く黒雲覆いて暗夜のごとし。水主楫取本心を失う。時に大師虚空に向かいて「無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間」の文を唱え給うところ忽ち空中に観音光を放ちて示現し船を擁護し給えば、黒雲晴れて白日輝き、逆風変じて順風となる。
人々歓喜踊躍して暫く合掌し奉る中に彼の観音は漸々として消え給う。いよいよ波平にして程なく肥前の国松浦の岸に着き給う。時に船人、大師に向かいて曰く「願うところは彼の海上に来現に違わず大悲の尊像を作り給え」と大師止むことを得ず其の船木を以て作り給えと便ち加持し給えば彼の尊像忽ち大光明を放ち給う。諸人奇妙の思いをなし、信心肝に銘ず。便ち其の観音是なり。
之に依って船人剃髪して大師の弟子となる。其の后此の観世音の御影を写し、印施して船中の守りとす。此の世にては悪風水難を逃れ未来にては弘誓先達の導師となり現当二世の諸願成就す。
=================================
慈覺大師は遣唐使として中国に赴き、その帰り、嵐に遭遇され、海上で護船観音様にお会いになりました。そして無事に肥前国(今の佐賀県?)に上陸され、その後に、護船観音様を難破した船の材料で製作したと記載されています。大師は、どこから難破した船の材料を探してきたのか?と思っていましたところ、下記の文献がありました。
================================
慈覺大師の渡航(遣唐使の渡航の困難)
承和2年(836年)、1回目の渡航失敗、翌承和3年(837年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。承和5年(838年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁(えんにん=慈覺大師)の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁は潮で濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
『出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/円仁』
=================================
この文献の内容は、当寺院の縁起文と完全に合致しています。なるほど、慈覺大師は、ご自身が乗船された船の材料で、この護船観音様を製作したんですね。遣唐使の船の材料でできているなんて、なんだかロマンチック。
護船観音様のご開帳は明日(12月2日)で終わります。これまで100年に1度とされてきたご開帳ですが、大変貴重な観音様ですので、できるだけ多くの方にご拝観頂けますよう、折を見てご開帳の機会を作りたいと考えています。合掌。