物質の人

元来、人は仏性を持っているとお釈迦様は説いてきた。仏性とは、慈愛・慈悲の心。愛情とは、相手を大切にしようとする気持ちである。

しかし、昨夜は、見知らぬ人を刺す通り魔的事件が長野で発生したり、関東では闇バイト事件が多発したり、誹謗中傷で自殺者を出したり、店員や駅員さんに暴言・暴力を振るう、紛争や戦争で多数の人命を奪うなど、今の社会を見ていると、仏性の無い人が増加傾向にあるように思う。

このような仏性の無い人のことを、住職は「物質の人」と呼んでいる。

第二次世界大戦後、日本は科学技術で発展し、生活を豊かにしてきた。高度経済成長時代は物に溢れ、世界的にも、物を所有することが幸せになることだという物質に溺れる生活になった。その結果、人の体や脳が、人の意識を生み出しているのであって、死ぬと体や脳が無くなるので意識も消滅するのだという物質を中心にした物の見方に変わってしまっている。物質の体があって、物質の体が意識を生み出しているという見方であるが、これは間違っているのである。

実は、先に意識があり、体は意識の情報に基づき生成される。高次元に存在する意識体が、この3次元の物質世界に現れるとき、物質である体を得て、この世界に出現するのである。体は、生まれてから死ぬまでの、一時の借り物なのである。

意識体が物質の体を構成するときに使う情報はDNAである。3次元世界よりも高次元の世界が存在しており、この世界は意識体の世界であり、物質が入り込めない情報の世界となっている。

意識体は元来、お釈迦様が説くように慈愛と慈悲という仏性を持っている。人だけでなく、動物も植物も生命は皆、仏性を持っている。生命は元来、仏性を備えている

ところが、慈愛・慈悲の心、仏性が消えてしまった人が、世界に増えつつある。生命としての人から仏性が消えてしまったとき、それは人なのであろうか?と考える。それは人ではなく、人の形をした単なる物質である。動いてはいるが、慈愛や慈悲の心も無く、ただ飯をくらい、排泄し、動いているだけの物質になっている。そのような人を、住職は「物質の人」と呼んでいる

生命には寿命がある。それは、高次元の意識体が、この3次元の物質世界に現れるための一時の借り物の体だからである。寿命が尽きたとき、あるいは、体は物質であるから、病に侵されて体を失うこともある。しかし、物質の体が無くなったとしても、意識体は存在し、高次元の情報の世界へと戻っていくだけなのである。

動物はむやみに殺しを行わない。動物は仏性を持っている。物質の人は動物以下の魂である。お釈迦様は、人は「貪瞋痴」の三毒に侵されやすい生き物であると説いた。「貪(とん)」は貪り、貪欲。「瞋(じん)」は怒り、憎しみ、「痴(ち)」は愚かな行為、妄想。三毒は人を「物質の人」に変えてしまう。注意せよ。これ以上、「物質の人」が増えませんように。