施餓鬼法要とは?

お釈迦様の弟子の中で、一番、知恵に優れていたアーナンダ(阿難陀尊者)という僧がおりました。ある日、アーナンダが、山にこもって修行をしていると、目の前に、ある者が現れました。その者は、体はやせ細ってガリガリ、針金のような髪の毛、そして口から火を吐き、頭からは煙が立ち上っています

その者は、アーナンダに「そんな修行などやっていても、なんにもならないぞ。修行などやるなやるな!そんなことをしていると、お前さんも3日のうちに、私と同じようになるぞ!」と言いました。

びっくりしたアーナンダは、すぐさまお釈迦様のところに行き、尋ねました。「あの者はいったいなに者なんでしょう?」お釈迦様はしばらく目を閉じていましたが、アーナンダにこう言いました。「アーナンダよ。その者は餓鬼(ガキ)という鬼である。餓鬼は、そもそもは人間であったが、現世の中で、貪り(むさぼり)、貪欲(どんよく)の業を行なった結果、地獄界のひとつである餓鬼界に落ちた者である。

餓鬼界とは、食べ物は周りにたくさんあるのですが、食べようとして食べ物を口の前にもっていくと、口から吐いた火で燃えてしまう場所です。食べたいのに食べれないという苦しみを味わうのです。現世での業の報いでしょうか。

続いてアーナンダはお釈迦様に尋ねました。「3日のうちに、お前も同じようになると言われました。どうしたらよいでしょうか?」お釈迦様は答えます。「餓鬼の言うことなど、真に受けずとも大丈夫である。あなたは、迷わず修行を続けなさい。されど、餓鬼といえども哀れである。年に1度ぐらい、餓鬼に食べ物を施し供養してあげなさい。」ここにもお釈迦様の慈悲(じひ)の心が現れています。慈悲とは、痛み悲しんでいる人を暖かく見守り、助けてあげる気持ち、心です。

これ以降、アーナンダは毎年、餓鬼を現世に招待し、餓鬼に食べ物を施す「施食」を行うようになりました。これが施餓鬼会の始まりです。

悪い所作をした子供のことを「悪ガキ」と表現しますが、この「ガキ」とは、まさに「餓鬼」を指しています。要するに飢えた鬼のことが餓鬼なのです。子供は貪欲ですから、ある意味餓鬼でもあります。しかし、その餓鬼に慈悲の心を教え、独り占めしない、周囲の友達にも分け与える心を持つように教えるということです。子供に限らず、大人であっても餓鬼になっている人がいますね。あまりにも独り占めし過ぎたり、人に分かち合わない業が多いと、あなたも餓鬼界に落ちて、いつもお腹が空いた。。。。となってしまいますから気をつけましょう。

お寺で執り行われる「施餓鬼」法要では、子供達にお供え物や菓子を撒いたり、参拝者に供物を配ったりしています。これは、アーナンダが行なった「食べ物を皆に分け与える・餓鬼であっても、この日だけはお腹一杯食べさせてあげる」という供養で、儀式の中で地獄の釜を開いて、餓鬼界から餓鬼を現世に呼び寄せ、そして施食します。参拝した子供たちが餓鬼の代わりとしてお菓子を拾い集めるわけです。施食することの大切さを参拝者が再認識する法要でもあります。

妙法寺では、例年8月19日に「施餓鬼会」を執り行っています。撒いたお菓子を子供達が取り合います。小さい子よりも、大きいお兄ちゃんは、撒いたお菓子をたくさん拾うことができます。でも、法要が終わった後、大きいお兄ちゃんは、自分が取ったお菓子を、あまりとれなかった小さな子に分けていた光景を見たことがあります。これが、まさに慈悲の心であり、そして、慈悲の心を持った大きいお兄ちゃんは、今後の人生において大切な、大きな宝を得たことでしょう。

夏の行事「盂蘭盆会」

盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、夏のお盆の行事のことです。ご先祖様・親・兄弟姉妹・親族など、故人が現世に戻り、故人を偲び、食べ物などをお供えして感謝を申し上げて供養する儀式です。

では、なぜ「お盆」というのでしょうか?「お盆」は略語です。日本人は略するのが好きですね。「お盆」の正式名称は「盂蘭盆(うらぼん)」です。サンスクリット語の発音「ウラバーニャ」を音で漢字表記したのが「盂蘭盆」。

では、サンスクリット語の「ウラバーニャ」とは何を意味するのでしょう。ずばり「逆さ吊り」という言葉です。えっ?お盆が「逆さ吊り」??? どういうこと????

これには、以下のようなお話があります。

お釈迦様の弟子の一人に、目連(もくれん)という僧がおりました。目連は非常に優秀で修行にも励み、ある日、神通力を得て、瞑想をしていると、亡くなった自分の母が地獄で逆さ吊りの刑を受けている様子を見てしまいました。驚いた目連は、お釈迦様に相談しました。

「お釈迦様、私の母が地獄に落ちて逆さ吊りとなっていました。哀れな母をなんとか救いたい。どうすれば母を救えるでしょうか?」

お釈迦様は、しばらく目を閉じたのち、目連に、このように答えました。

「目連よ、あなたの母は理由があって、逆さ吊りの刑にあっているのだ。例えば、あなたが幼少のころ、あなたの友達が遊びに来たとき、「喉が渇いたので水がほしい」と言ったが、目連の母は「お前にやる水など無い!」、「お腹が空いたので食べ物が欲しい」と言ったが、「お前にやる食べ物など無い!」という行為があった。目連には、なんでも与え、愛情をもって育てたが、自分の子供以外には、なにひとつ施しをしなかったのだ。」

自分の子供は大事にしたが、他人にはひどい仕打ちをしていた母だったのでしょう。現代でいうモンスターパーレンツのような母だったのでしょう。

目連は、お釈迦様に問いました。「どうすれば、母を逆さ吊りの状態から救えるのでしょうか?」

お釈迦様は目連に言いました。「あなたの母が現世でやらなかったことを、あなたが母の代わりに現世で行うのです。そうすれば、母を救うことができるかもしれません。」

お釈迦様のお話を聞いた目連は、その後、困った人や飢えた人に水や食べ物を与え、母を救い供養するため、その後も施食、布施を行いました。

これがお盆の始まりのお話です。お盆に、故人を偲んで祭壇を作り、食べ物や飲み物をお供えし、故人への感謝を念じ、故人を思い出して偲ぶ。これが「お盆」の行事となったのです。お盆の供物は、お供えが終わったあと、皆で分け合うことで施食となります。

お釈迦様は、自分にも他人にも動植物にも、そして環境にも愛情をもって接し、困っている人がいれば助け、布施を行う、そういう心をたくさんの人々が持てば、どんな時代であっても、そこに住まう人々が幸せに過ごせると考えていたと思います。

このような心をもって、今年のお盆を迎えたいものです。

愛情は奇跡を生む

知り合いのAさんは猫が大好きで、3匹の猫を飼っています。最初の子は丈夫で元気に育っていますが、末っ子は、残念なことに悪性のガンを発症し、獣医師さんからは「もう長くはもたないな」と宣告されていました。

ところが、悪性の癌にも関わらず、末っ子は毎日元気で、獣医師さんは「不思議だな。おかしいな。なぜ、こんなに元気なんだろう???」と。

Aさんは、「かわいいね!いい子だね!愛してるよ!」と言葉をかけながら、毎日、たくさんの愛情をかけて猫たちのお世話をしていたのです。

愛情をかけるというのは、実は奇跡を生み出すのではないかと住職は想像しています。前の量子の不思議な振る舞いのブログや「言霊(ことだま)」のお話を書いていますが、「愛情」という意識は、高次元の世界に繋がりやすい、力の強い意識です。我々の住む3次元ではない高次元の世界は、量子の振る舞いからも、その存在は確実であることが最近わかってきました。人間の意識は高次元の世界に関与し、その中でも「愛情」という意識は高次元の世界と繋がりやすい意識なのです。

癌に侵されているものの、飼い主からの強い愛情が高次元空間を通じて末っ子に良い作用をもたらしているのではないかと考えています。

愛情とは「大切に想う気持ち」です。

猫に限らず、人にも動植物にも環境にも、「愛情をかける」ことの大切さを再認識するとともに、次元を超えた、その量子的効果には、今後も注目していきたいと思います。

 

仏教は物理学

仏教とは、お釈迦様の教えであり、お釈迦様が発見した人類の知恵でもあります。その根本にある考え方は「因果」です。

「因果」とは、原因と結果のことです。すべての事象には必ず原因(要因)があり、それらの相互作用として結果が生まれるというのが根本にある考え方です。また「因」に、「縁」というそのときの周囲の状況が作用することで、多様で複雑な結果が生じると説いています。これを「因」「縁」「果」の法則と言います。

すべての事象(結果)には、必ず要因があるという考え方は、現代物理学などの科学の根底にある考え方と同じです。つまり、お釈迦様の教え・知恵とは、まさに科学であるということです。

加えて、お釈迦様は実在した人間です。お釈迦様は、人間の苦しみは、何が原因で生まれてくるのかを追求しました。苦行を行ない、ガリガリに痩せてしまったのも、苦しみの原因を探るためだったのではないかと想像します。苦しみの要因を探る中で、お釈迦様は、我々の住むこの世界がどういう世界なのかを知る(悟る)ことになります。このお話は長くなるので、結論だけ書き添えておきますが、「我々の住む世界(三次元空間)は、空(高次元空間)という世界の一部であり、空の世界は実在し、我々の世界と相互作用している。このことがわかれば、心おだやかに、愛情をもって生活できますよ」ということです。我々を含む地球上の生命体は、一時の宿としてこの世界に仮住まいさせていただいているという感覚です。そして、お釈迦様の教えの根底にあるのは「慈愛」です。このお話はまたの機会に。

仏教をこのような視点で見ると、小住としては「仏教は宗教というよりも科学だよね!」と捉えています。

2600年もの歴史がある仏教には、多くのお釈迦様の弟子たちが、お釈迦様の言葉を経典にし、多様な洞察を行い、その過程でたくさんの経典(お釈迦様の知恵を記したもの)がでてきました。とても読み切れる量ではありませんが、多様な教えがあります。初期は小乗仏教として、どちらかといえば、修行僧自身の内なる目覚めを中心とした教え、その後は大乗仏教として、そこに住まう人々が、どうしたら幸福になれるか、心穏やかに生活ができるかにフォーカスされてきました。

多くの人々が、お釈迦様の知恵に帰依(きえ)すれば、この世界は確かに幸せになると考えます。「帰依」という語は、聞き慣れないかもしれませんが、簡単に言えば、「十分に理解し実践すること」です。

代表的なお釈迦様の知恵としては、

・むやみに生き物を殺してはいけません。
・人の物を盗んではいけません。
・嘘をついてはいけません。
・不倫をしてはいけません。
・お酒を飲んで(泥酔)してはいけません。

これを行うと不幸になりますよ!という教えです。実際、これを実行して不幸になっている人や組織をよく見ますね。

続いて、三毒(貪瞋痴:とんじんち)があります。

・貪(とん):あれも欲しい、これも欲しいという貪り
・瞋(じん):恨んだり、憎しみんだり、怒ったり
・痴(ち) :愚かな行為、愚痴、妄想、無知

三毒は人間という生き物が侵されやすい毒なので、特に注意しましょうね!というお釈迦様の分析結果です。この毒に侵されると、周囲もその人自身も不幸になってしまいます。粉飾決算や、従業員を大切にしない経営者や、人を大事にしない政治家や、店員に暴言を吐くカスタマーハラスメントや、あおり運転をやる人などは、この三毒に侵されています。現代社会は三毒に侵されている人が増えているのかもしれません。

続いて、どうすれば幸せな生活を送れるのかを教える「八正道」

正見・正見・正語・正業・正命・正精進・正念・正定

これも長くなるので、ここでは説明をしませんが、確かに、上記を皆が実践すれば、愛情に包まれた、居心地のよい社会になります。例えば「正語(しょうご)」。表面的には「正しい語を使いなさい。暴言を吐いたり、汚い言葉を使ってはいけません」という教えですが、お釈迦様の根底にある「慈愛」の精神を含めると「相手の状態をよく観察し、相手にとって愛情のある言葉をかけなさい」という意味です。現代は情報化社会にあって、SNSなどで匿名個人から発信が簡単にできるようになったのは良いが、心ない発言や誹謗中傷が蔓延するようになりましたね。皆が八正道の1である「正語」を実践するだけでも、この世界が良い社会になりますね。

話を戻すと、仏教は宗教という感覚よりも、科学的思考が強い教えです。自分の行いは自分に戻るという因果(自業自得)も科学的な教えと言えるでしょう。般若心経に説かれる世界は、現代物理学や量子論が気がつきはじめた、我々の存在する宇宙とは何か?を示しています。

物理学者のアインシュタインは、下記のような言葉を残しています。

「未来の宗教は宇宙的宗教でなければならない。それは個人的な神を超越し、教理や神学を避けなければならない。近代科学の必要に応じることができる宗教があるとすれば、それは仏教であろう。」

The religion of the future will be a cosmic religion. It will have to transcend a personal God and avoid dogma and theology. … If there is any religion that could respond to the needs of modern science, it would be Buddhism.” Einstein, as quoted by Ricard & Thuan, in The Quantum and the Lotus, 2001.