妙法寺では、「住職のなんでも相談室」を設けています。頻繁ではないですが、いろいろな相談をお聞きしています。その中で、いろんな不幸が起こる、何か心霊的なものがあるのではないか?と不安になって相談される方もおられます。
不幸が生じる要因が、心霊的なものなのか、そうでないのか?様々なケースがありますが、住職の分析では、その要因は、ほとんどの場合、自らの内にあります。自らの内とは、ご本人であったり、その周囲にいる人や、広く見ると周囲の動植物の場合もあります。
霊や悪いものが憑いた影響か?と、怖がる方もおられますが、住職の洞察では、霊が悪いことをするというのは、ほとんどありません。霊のせいだと思う人は、過去に何か悔やむことをしたことがあって、その後悔の念を霊に結びつけていたり、あるいは周囲の人や動植物に、そのような後悔の念が生じていて、間接的に自分の魂に影響していたりです。
不幸が生じる、不幸を呼び寄せてしまう要因は、自分自身の内側にある念、または周囲の人や、周囲の動植物の内側にある念が主な要因です。このような後悔の念を生み出す要素には、仏教徒が守るべき戒律(五戒)を守らないことがあります。
五戒とは、
・むやみに生き物を殺してはいけません。
・人の物を盗んではいけません。
・嘘をついてはいけません。
・不倫をしてはいけません。
・お酒を飲んで(泥酔)してはいけません。
五戒を守らないことで、不幸になっている人は世の中にたくさんいますね。
いっぽうで、五戒を守るだけでは防ぎきれないこともあります。不幸から逃れるだけでなく、この世には不幸を跳ね除ける力が存在しています。不幸を招かない生き方と行動のやり方があるのです。これは、幸せになるための生き方、行動のやり方でもあります。その答えは、慈愛と利他の実践です。
自分にも、周囲にいる人にも、動植物にも、そして自然に対しても、慈愛と利他を注ぐ行動です。「愛情」というのは、高等な生物が持つ最高の宝であり、不幸を跳ね除ける最大の力です。五戒を実践しているのに、不幸が来てしまったと感じた人は、自分や、自分の周囲にいる人、動植物を、よく観察してみましょう。
愛情の薄い人が近くにいれば、それも不幸を呼び込む要因になります。もし、自分や周囲に愛情が足りていないと気がついたら、自分自身にも、周囲の人にも、動植物にも、たくさんの愛情を注いでください。愛情を注ぐとは、自分自身の心や体、周囲の人や動植物、自然界を大切に思う気持ちを持って行動することです。
もし霊のせいだと思った人は、その霊に対して、愛情を注いであげましょう。よほど酷いことをしていない限り、霊が悪さをすることはありませんが。
「愛情を注ぐ行為」は不幸を寄せ付けない最高の盾になります。
友人でも、職場の人でも、近寄ってはいけない人がいます。どんな人かというと、例えば、暴言を吐く人、いつも悪口を言っている人、いつも不満を口にしている人です。このような人は、様々なことが自分の思うようならず、脳の中は不満や嫉妬で満たされている状態。魂のレベルが最低レベルとなっています。また不満や嫉妬で脳が満たされる原因が自分にあることがわかっていません。こういう人を見つけたら、まずは近寄らないことです。お付き合いをしたり、近づいたりすると、不運を呼び込んだり、自分の魂のレベルを下げてしまうかもしれません。言動をよく観察して見極めましょう。
逆に、魂のレベルが高い人は、悪口や不満を口から出しません。魂のレベルが高い人は、いつも愛情に満ち溢れており、丁寧な言葉を口にします。決して暴言を吐くことがなく、いつも穏やかで冷静な人です。そして、魂のレベルが最高レベルに達すると、自然界や神仏からの愛情を感じることができるようになり、そのような人は、自然や人や動植物にも愛情を注ぎ、また周囲の人に感動を与えてくれます。
マスク着用を拒否して飛行機を遅らせた議員さんのニュースがありましたね。重要で高い地位の役職に就いているけれども、魂のレベルは低い状態です。これでは人が近寄ってきません。いずれ孤独になるでしょう。
もし、自分が「魂のレベルが低い」と気がついたなら、以下を実践すると魂のレベルは上がっていきます。
・姿勢と呼吸を整える
・暴言を吐かない、丁寧な言葉遣いを心がける
・努力を怠らない
・相手を大切に思い、感謝する
・自分の心の状態を客観視する
汚い言葉、不満な言葉を口に出していると、魂のレベルはどんどん下がっていくので注意しましょうね。
お釈迦様の教えや禅の感覚を体感した人が気づくこと。それは、自分という存在は自然(宇宙)の中の一部であり、自分が喜ぼうが、苦しもうが、そんなことには無関係に、自然は淡々と進み、常に変化しているということだ。
理科系の住職が、この気づきを理科系的に説明すると、天動説、地動説を発見したときの状態と似ている。
昔の人類は、太陽や天体を眺めて、地球を中心に、天が動いていると思っていた(天動説)。ところが、観測(観察)を進めると、どうも、地球が中心で天が回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っていることがわかった(地動説)。さらに、観測が進むと、銀河系という星の集団のほんの片隅に太陽系があって、そこに地球が存在していることがわかった。
禅を体感すると、この世界の中心に自分が存在しているのではなく、この世界のほんの片隅に自分は存在しているに過ぎないことに気がつく。例えば、生老病死は、この世界の摂理であって、自然なことなのだ。さらに、嬉しい、悲しい、苦しいなどの感情は、自然とは無関係な事象で、自分の中で生み出している事象に過ぎないことがわかる。
嬉しいとか、愛おしいとかの感情は、心(脳)によい刺激を与えるるが、悲しい、苦しいという感情は、心にストレスを与え、健全な脳を破壊していく。
この感情に自分が振り回されることは、自分を中心に考える天動説と同じなのだ。自分が中心にあるのではなく、自分は自然の中の一部であり、この世界に生かされている小さな存在。「感情」とは、この世界とは関係なく、自分が生み出しているものなのだと気づくことは、地動説を発見したときと同じ感覚である。感情は自分が生み出しているのだから、これは自分で取り除くことができる。そして心を覆っているものを取り除くと、本当のことが見えてくるとともに、穏やかな心を持つことができる。
自分の心が天動説状態の人は、苦しみや葛藤から逃れることはできない。自分の心が地動説状態の人は、よい気づきを得て、穏やかで幸福な状態でいられるのだ。
住職のなんでも相談室やマインドフルネス講座をやっていて気づいたこと。それは、いつも、何かに「感謝」している人には、鬱病を見たことが無いという事実です。
いつも何かに感謝するためには、知識や経験、そしてちょっとした洞察力が必要。なぜならば、日常のいろいろな場面で、多くの感謝する対象に気づく、見つけるためには、知識、教養、経験による情報量と、その情報を元に、その奥にある真実、状態までを想像(洞察)することがポイントだからです。このような日常の中でのたくさんの気づきを実践している人たちは、いつも何かに感謝している状態となります。
「感謝」する事象にたくさん気がつくというのが、心(脳)にたいへん良い効果をもたらします。住職はヨガも教えていますが、ヨガで体をストレッチすることで、筋肉の凝りがほぐれ、体全体が軽くなります。いっぽう、心(脳や心臓)はどうやってほぐすのか?これが結果的に「感謝の念」なのです。
マインドフルネスの実践は、今、目の前のことに意識を集中させ、観察することから始まります。観察した結果は元情報となります。次に得られた情報から、瞑想によって、その奥にある事象までを想像(洞察)していくと、いろいろな事実が見えてきます。そして、その中の多くの事実が、自分を支えている、自分を生かしてくれていることに気づきます。例えば、自分の身近な隣人である両親、家族、友人。また飼っているペット、周囲の生き物。空気、水、太陽、地球、宇宙などの環境も同様。さらには人類が構築した社会インフラ(上下水道・電気通信・ガス・交通機関)、商店、そして国家、行政機関。またそこで働いているたくさんの人たちも。書き始めるときりがありません。
そして、あら不思議。「感謝の念」を心(脳)にたくさん与えると、心(脳)は、穏やかに安定しはじめ、顔もにっこり。穏やかな心(脳)は、さらに安定した心(脳)を育成し、新たな気づきを発見していく。さらに進むと、今まで見えなかったものが見えるようになってくる。住職は、このことを「魂の次元が上がる」と表現しています。神仏の世界に近づくという感覚でしょうか。
コンビニの店員さんに、不手際があったからと土下座させるなんて、とんでもない。深夜まで働いてくれる店員さんがいるから、深夜に買い物ができるわけ。コロナウィルスの感染を恐れて、宅配業者に「近寄るな」などの暴言を吐くのも、とんでもない。宅配業者がいないと困るでしょう。訪問看護の医師の対応が気に食わないと散弾銃で撃ち殺すなんて、とんでもない。訪問看護でどれだけの人が助かっていることか。
「感謝の念」は、ストレスを減らす心(脳)の栄養素。真の仏教徒やキリスト教の信者が、いつも笑顔でにこにこしているのは、いつも、何かに感謝しているから。そして、彼らの中には、鬱病は皆無といっていいでしょう。いつも「ありがとう、ありがとう」と言っているお爺さんやお婆さんたちは、長年の経験から魂の次元が高くなっており、神仏の世界に近づいているのかも。
昭和から平成にかけて、高度経済成長してきた日本は、「科学技術立国だ!」と自負してきました。科学技術のおかげで、生活も豊かになり、情報もたくさん取れるようになりました。いっぽうで、なにかにつけて「科学的根拠は?」とか「科学的エビデンスは?」とか、目で見える事象とか、科学で立証された事象以外は信じないという人が増えてきました。これを住職は「悪しき科学技術信仰」と呼んでいます。
科学技術は、主に物質面や我々の住む宇宙について解明してきました。しかし、科学技術で解明できた事象は、まだほんの少しであることに気づかず、すべてが科学技術で解明できたと思うことは人間の傲慢です。まだまだわからないことは多々あります。特に、人間の心の事象については、現在の科学技術では深く踏み込めていません。
令和の時代に入り、世界的に人々の心に関わる問題や事件が顕在化してきています。自殺や、人を巻き添えにする事件、誹謗中傷などの言葉の暴力などなど。科学技術や経済を重視してきた日本では、政治の場でも、学びの場でも、人々の心の問題を軽視してきたことが、昨今の様々な事象・事件になって現れているように思います。
仏教は宗教でもありますが、人間の心の問題を扱う学問でもあります。ブッダ(釈迦)は、人間の心の有り様、心の生み出す事象の研究者でもありました。どうしたら心が生み出している苦しみから逃れることができるか、どうしたら、幸せな人生を歩めるのかを探求したのがブッダです。
「悪しき科学技術信仰」とは、科学技術で立証された事象しか信じないという、ある種の信仰のように見えます。これに陥ると、生きていることや、生活していることが、無味乾燥なものになっていきます。例えば、なんのために生きているのか、なんのために食事をしているのか、なぜ、葬式にお坊さんを呼んでお経をあげるのか、なぜ結婚式を教会でやるのか、なぜ、お正月にお雑煮を食べるのか、なぜ、正月に神社にお参りするのか、なぜ各地域でお祭りをやり神輿を担ぐのかなどなど。これらは「悪しき科学技術信仰」からすると、科学的根拠の無い行為となってしまいます。科学的根拠が無いのだから、やらなくてもいいや!となってきていませんか?しかし、これらを無意味としてやらなくなると、どうでしょう。極端に言えば、人は死んだら終わり、そのまま火葬にするだけでいいや!となりそうですね。教会で結婚式をやる科学的根拠も無くなります。毎日食事を摂るのも、単に細胞を維持するだけのことになりませんか。この世に生まれることも、死んでいくことも、今、生きていることも、科学的根拠で見てしまうと単なる偶然の事象にすぎないことになってしまいそうです。社会がこうなってくると、なんでもありの社会、弱肉強食で、愛情の無い、経済を優先する無味乾燥な社会になっていきます。
科学技術信仰に、心の事象が加わっていくことが、これからの時代には求められていると思います。自分の心の状態、他人の心の状態、心を重視した価値観の創造が、今の日本には必要であり、悪しき科学技術信仰を見直す時期にきているのではないでしょうか。自分だけがよければいいや!とか、人様に迷惑をかけない!のような、冷酷な考え方や表現の背景には、「悪しき科学技術信仰」や心の事象をみない「経済だけを重視した考え方」がありそうです。政治においても、「経済」だけに目を向けた結果が「非正規雇用の増大」という冷酷で無慈悲な状況を生み出した要因だと思います。
現在の科学技術でも、まだ見えていない、わかっていない事象はたくさんあります。見えていない、見えないから、そこには何も存在していないと思ったら大間違いです。見えなくても存在しているものはあります。
令和の時代は、科学技術の発展とともに、心も穏やかに安心して生活できる時代にしたいと考えています。ここにお寺の役割もありそうです。