案内板の設置(2)

八幡堀の橋のたもとに、案内板を設置しました。曲がり角からも見えますので、迷うことも少なくなるかも。ご近所のご協力に感謝!

黄檗宗の梵唄(ぼんばい)

2018年の施餓鬼法要(約2時間)を16分のビデオに編集してみました。中国(明代)の臨済宗をそのまま伝承する黄檗宗の旋律のあるお経(ぼんばい)、視聴してみてください。

餓鬼(ガキ)の供養である施餓鬼法要。お腹が空いて飢えている鬼(いわゆる餓鬼)が、撒いたお餅やお菓子を一生懸命拾って、その日だけはお腹いっぱい食べ「満足して」帰ります。法要の中で、ゼニ山、カネ山という山に火を放ち、それを拾って財布やカバンに入れておくとお金持ちになれると伝えられています。

1.出頭半鐘
2.始まりのお経
3.場を清める聖水の散布
4.音楽の呪文
5.ゼニ山、カネ山への放火
6.餓鬼供養の餅、菓子巻き
7.終わりのお経

案内板設置!

妙法寺までの道に迷う方が多かったため、ご近所のご厚意により案内板を設置しました。この先に行き止まりの看板がありますが、その先が山門です。

護船観音の縁起

御本尊:護船観世音菩薩

妙法寺に残る護船観音様の縁起文(古文書)として、下記の文書が残されています。

◆護船観音縁起文(原文)◆

そもそもれは、かんのんだいかくだいおんさくであります。だいじょうねん西せいれき838ねん)ににゅうとうし、同十四ねんちょうたまうとき、かいじょうにおいてなんぷうあらなみがんせきばすがごとこくうんおおいてあんのごとし。すいしゅかんどりほんしんうしなう。ときだいくうかいて「しょうじょうこう にちしょあん のうぶくさいふう みょうしょうけん」のもんとなたまうところたちまくうちゅうかんのんひかりはなちてげんふねようたまえば、こくうんれてはくじつかがやき、ぎゃくふうへんじてじゅんぷうとなる。

ひとびとかんゆうやくしてしばらがっしょうたてまつうちかんのん漸々ぜんとしてたまう。いよいよなみたいらにしてほどなくぜんくにまつうらきしたまう。ときふなびとだいかいていわく「ねがうところはかいじょうらいげんたがわずだいそんぞうつくたまえ」とだいむことをふなもっつくたまえと便すなわたまえばそんぞうたちまだいこうみょうはなたまう。しょにんみょうおもいをなし、しんじんきもめいず。便すなわかんのんこれなり。

これってふなびとていはつしてだいとなる。かんおんかげうつし、いんしてせんちゅうまもりとす。にてはあくふうすいなんのがらいにてはせいせんだつどうとなりげんとうしょがんじょうじゅす。

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かくだい師は遣唐使として中国に赴き、その帰り、嵐に遭遇され、海上で護船観音様にお会いになりました。そして無事に肥前国(今の佐賀県?)に上陸され、その後に、護船観音様を難破した船の材料で製作したと記載されています。大師は、どこから難破した船の材料を探してきたのか?と思っていましたところ、下記の文献がありました。

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かくだい師の渡航(遣唐使の渡航の困難)

承和2年(836年)、1回目の渡航失敗、翌承和3年(837年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。承和5年(838年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁(えんにん=慈覺大師)の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁は潮で濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
『出展:https://ja.wikipedia.org/wiki/円仁』

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この文献の内容は、当寺院の縁起文と完全に合致しています。なるほど、慈覺大師は、ご自身が乗船された船の材料で、この護船観音様を製作したんですね。遣唐使の船の材料でできているなんて、なんだかロマンチック。

護船観音様のご開帳は明日(12月2日)で終わります。これまで100年に1度とされてきたご開帳ですが、大変貴重な観音様ですので、できるだけ多くの方にご拝観頂けますよう、折を見てご開帳の機会を作りたいと考えています。合掌。